鎌倉で映画と共に歩む会

上映会の案内が配送されてきたので、宣伝しよう。
今年は溝口健二生誕51年、ジョン・ウェイン生誕100年とのこと。
 
6月22日(金)A『残菊物語』B『近松物語』C『雨月物語』D『雪夫人絵図』
8月28日(火)鎌倉映像フェスティバル(テーマは「鎌倉」。10分の作品を募集、講評は大林宣彦監督)
9月7日(金)A『捜索者』B『西部開拓史』C『リオ・ブラボー
 
購入したビデオカメラを活用するべく、上記の映像フェスティバル用に何か撮ってみたい気持ちはあるなあ。

歴史を考えるヒント

歴史を考えるヒント (新潮選書)

歴史を考えるヒント (新潮選書)

 
終わりの数ページで論じられた『中世における「自由」とは』に著者の「本気」が執念を込めて打ち出されており、感動した。「無縁」は西欧の「自由」に近い概念だと、私(網野)は今でも「本気」で思っていると、本文中で「本気」という言葉を実際に用いており、まじめそうな網野氏が、内心ここだけは「マジ」とルビをふりたかったのではないか、そうかんぐってしまいたくなるほど。

このまえ、夜中に目が覚めて、なんとなくテレビを付けたら、日本の若いラッパーが、私が苦手な「熱い口調」でこんなことを語っていた。

「俺らはみんなが夢を持つべきなんて思ってない。もてるならもったらいいし、もってなくてもある時いきなりひょっこり思いつくかもしれないんだし、ただ、俺らが言いたいのは『行けるなら行っとけ』ってこと。店でCD見てて、結構いいCDがあったとして、金はあるんだけど、買うかどうしようか迷ってるんだとして、そういうときは『行けるなら行っとけ』ってこと。それだけだよ。『行けるなら行っとけ』」

ミュージシャンが自分たちの主張を説明する例に「CD購入」の場面をあげてしまう愚直なしくじりが滑稽ではあるのだが、スルーしよう。
『行けるなら行っとけ』。ここでは何が言われているのか。迷ったときは、自分が一番やりたいことをやりなよ、一度きりの人生だし、後悔はよろしくないという直感に従ってのフレーズと読める。こういう素朴な刹那主義は、否定はできない。そう思いたい。最近はあまり聞かないが、よく不良が「関係ねーよ!」と啖呵をきって周囲を突き放す、あれも世俗ルールからの「無縁」だろう。彼らなりの「無縁礼賛」なのだとも思う。ただ、『関係ねーよ』『行けるなら行っとけ』、どっちも表現としていまひとつ胸に響いてこない(賞味期限切れ、もある)。

語感が「勝手気儘」と大差ない「無縁」(自由)をきちんとプラス評価することが、現在流通している日本語の範囲で、J-POPの歌詞(でなくてもいいのだけど)になかなか現れてこないのはどうしてなのか。この問いの源は、Liberty、Freedomを「自由」と訳した福沢諭吉にまで遡る。そこで、失われた意味とまとわりついてきた意味に目を凝らさないといけない。網野氏の著作から、そんなことを考えた。

退屈論

退屈論 (シリーズ生きる思想)

退屈論 (シリーズ生きる思想)

「暇」と「退屈」では若干ニュアンスが異なるような気がするものの、その差異の考察は別の機会に譲ることにして、小谷野敦の『退屈論』を読んだ。そこでハイデッガーが「退屈」を三つに分類していることを知った。
 
1.或るものによって退屈させられる。
2.或ることに際して退屈する。
3.なんとなく退屈だ。
 
1.は例えば、田舎の駅で列車を待つことだというが、ケータイの普及した現代にあっては、1.は解消されつつあるのではないか。

2.は「パーティに招待されて、食べたり飲んだりおしゃべりしたりしていながら、ふと気がつくと退屈しているといった類」で、特定の状況が持続した末に飽きてしまうことがこの退屈を招くのだろうと推察する。会社で感じる退屈はこれに近い。

興味深いのは3.で、川原栄峰という人が要約して述べるところでは「退屈とは、根本的に言えば、哲学せよという誘いですね。(中略)大衆は退屈に耐えられないで、『技術的世界の非故郷的な』『娯楽へと逃避する』ばかり」なのだそうだ。この「退屈」の規定には異論がない。そのとおりだと思う。要約の後半だが、退屈をしのげない大衆は、私の観察によれば、仕事に逃避するのである。娯楽への逃避が快を欲しての動きであるだけ「健全」なのとは対照的に、仕事への逃避は「拘束」をもって自由から逃走し、退屈を追い払うというマゾヒスティックな病理が顕著だ。

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン

以下、ミクシィからのコピペ。むしろこっち向けのネタだったので。

会社にいて何より苦痛なのは、個々人の生き方や考え方の差異を隠蔽して、みんなが同質であるという幻想をたがいに目で合図をおくって確認しあいながら、会話が進行していくことだ。

今そこにある危険や怒りを表現する方法が、私たちにはあまりにも不足しているのではないか。

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが99年の末にメキシコ・シティで行ったライブを収録したDVD「ザ・バトル・オブ・メキシコ・シティ」を見た後遺症がぬけないまま2週間が過ぎようとしている。

だいぶ前にセカンドアルバム「Evil Empire」だけ買ってもっていたのだけど、こんなにすごいバンドとは思ってなかった・・・。2000年に解散した。

4人編成だが、中心はギターのトム・モレロ(写真左)とボーカルのザック・デ・ラ・ロッチャ。ふたりのふつうでない経歴をWikipediaから引用する。

■トム・モレロ (Tom Morello, 1964年5月30日 - ) (G)
ケニアの民族過激派マウマウ団の一員で後にケニア初の国連代表となる父と、公民権運動や検閲反対運動に関わってきた活動家である母の間に生まれる。ハーバード大学政治学を専攻し、首席で卒業。議員秘書を務めていたこともあるが、リベラルな思想が災いし解雇され、本格的に音楽活動を始めることになる。
ユニークなエフェクターの使用法やスクラッチ奏法など、独創的なギタープレイで高い評価を得ている。
ハイスクール時代にトゥールのアダム・ジョーンズとElectoric Sheepというバンドを組んでいた。

■ザック・デ・ラ・ロッチャ (Zack de la Rocha, 1970年1月12日 - ) (Vo)
政治色の強いチカーノ壁画家である父と、反戦活動家である母の間に生まれる。RATM以前はハードコア・バンド「インサイド・アウト」のボーカルをつとめていた。
RATM解散後も音楽活動を続けている。毎年ソロ・アルバムの発売の噂が流れるものの、現在のところ発表には至っていない。


曲のあいだに編集してはさまれるドキュメンタリーの中で、ボーカルのザックはメキシコ南東部チアパス州で90年代なかばに起こった先住民の武装蜂起とアメリカを介した鎮圧のための虐殺について、語っている。

ザック「ここはメキシコ・シティ。尊厳を勝ち取る闘いに共感してコンサートしてる。メキシコ南東部では革命が進行中だ。チアパス 資源は豊富だが暮らしは貧しい州で現体制による貧困に反旗を翻した人々を−
サパティスタと呼ぶ。

古い先住民の村にいたサパタという男が"土地と自由"を求め立ち上がった。老いた農民らは言う。"サパタは死なず 戻ってくる"。さらに彼らは言う。
"風と雨と太陽が耕す時期を教えてくれる"
"植える時期も 収穫の時期も"
"希望も植えられ 収穫される"
"そして今 風と雨と太陽が別のことを教える"
"長い貧困のあと死ではなく革命の時がきた"
と。

サパティスタの初の声明は1994年1月1日。その言葉は基本的人権を求めた500年の闘いを映していた。

メキシコ政府はこれに対し、アメリカ政府を後ろ盾にチアパスの人々を弾圧。二度目のメキシコ革命だ。この事件はメキシコの圧政を支持する米政府の責任も浮き彫りにした。」

また、DVDの付録には、ザックとノーム・チョムスキーマサチューセッツ工科大学教授、言語学者)の対談映像が収録されている。
Youtubeだとこれ(インタビューの前半)↓

メキシコの大学が民営化された意図をたずねるザックに答えながら、チュムスキーは言う。

「健康な社会において、大学は危険な機関であるべきです。何が正しいかを問い続けるべきですから。知識を得ることで疑問が生まれます。その危険を少なくし、疑問を持たせないこと。それが教育攻撃の目的です。」
↓(インタビューの後半。上記の発言はこれの最後の方)


大学が「実学」志向にシフトしたり、社会の即戦力となる人材の育成を目的とすることは完全に間違っている。メキシコと日本では文脈が異なるとはいえ、大学について言えることは同じだと思う。

南の魚がジャングルのもやの中をのぼっていく
ガンのごとき激しい力にしがみついて
黒い旗と赤い星
昇りゆく太陽が
ロサンジェルスの上を照らし出す
そこに住む人種には
インティファーダの夜明けのガザのよう
覆面の人々に手渡された教訓を知ろう
そして大都市をおさえこむのだ
お前の上にあれは建てられているんだ
新年になれば総てのものは変わるかもしれない
新年に総てのものが変わるように
指呼の先の戦い
土地か死か
("War within a breath"より)

ダーウィンの悪夢

「グローバリゼーション」とは何か。Wikipediaにはこうある。

グローバリゼーション (Globalization)とは、これまでの国家や地域などの境界を越えて地球規模で複数の社会とその構成要素の間での結びつきが強くなることに伴う社会における変化やその過程をいう。1970年代から広く使われるようになった。

そこから、今日では「運輸と通信技術の爆発的な発展や冷戦崩壊後の自由貿易圏の拡大によって、文化と経済の国境にとらわれない貿易が促進すること」をも指すようになった。

タンザニアヴィクトリア湖に近年になって突然増殖した食用の巨大魚ナイルパーチが媒体
となって、ヨーロッパとアフリカ中部のあいだの紐帯を強めたことが、この映画が狙い撃つ「問題」の発端であるようだ。
けれども、作り手や広告の誘導を少しでもわきにおいてしまえば、見終わってすぐに私たちが「グローバリゼーション」を問題として認識するわけではないと思われる。
目に付くこと。
非常に多くの人命が失われるか、失う危険にさらされている。明日生きている保証のない、人間が置かれうる状況として、まず戦争が思い浮かぶが今は戦争(内戦)にはとりあえずなっていない。状況はしかし、戦争状態より悪い。1晩1ドルで働く漁業研究所の夜警ラファエルは隣国ウガンダとの内戦を「軍からは給料が支給され、運がよければ生き残れる」ので「まし」だったとふり返る。この比較が脳天気なわれわれに説得力を持つの]は、映像が伝えるヴィクトリア湖界隈の人々の生活の無秩序ぶり−あらゆるルールが壊滅し(食料の争奪では、子供同士であっても、年長者が年少者をなぎ倒して奪い取る)、売春とエイズが蔓延し(やはりヨーロッパが運んだキリスト教が避妊を遠ざけている)、魚肉をはぎ取られたナイルパーチの骨格の残骸が腐敗して地面を覆い、高濃度のアンモニアが充満している。
ヨーロッパからやってくる飛行機を操縦して、日銭を稼ぐ白人のパイロットはインタビューの中で、この状態がまずいのは分かるが「でも、どうすりゃいいんだ・・・」とつたない英語で慨嘆していた。こうして肩落としながら、翌日にはまた魚を乗せて帰るこのパイロットは偽善者だろうか?上映中にすすり鳴く観客がいたが、ここまでくると私など涙すら出ない。どうすりゃいいんだ・・・、と観念して無策をさらすばかりである。
情報化が進んだ現代にあっては、遙か遠方で起こるこういう出来事を知ってしまう、まさにそのことが、私たちにとっての不幸なのだという意見がある。それはあるかもしれないといったんは思った。けれども、われわれは不謹慎にも、こういうドキュメンタリーを見ることで励まされてしまうのではなかったか。日常生活でつらいことがあると「タンザニアよりはまし」というふうに。打つ手なし。
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シティ・オブ・ゴッド TVシリーズ

CITY OF GOD~THE TV SERIES~ [DVD]

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 正確には映画ではなく、映画『シティ・オブ・ゴッド』のブラジルで放映されたテレビバージョンである。2枚組で全9話。6000円もするので、はじめに渋谷のツタヤで見つけたときは購入をためらったのだけど、あの映画のインパクトを思い起こすと、テレビ版であってもやはり見ておく必要があると考え直した。まだ1枚目を見ただけだが買って正解。リオデジャネイロのファベーラというスラムが舞台。アセロラとラランジーニャという親友同士の二人の少年が主人公。貧しい階層の人々がなぜ集まって暮らす場所がなぜ生まれるのか、あまり考えたことがなかったのだが、そうしないことには単独では決して生きていけない事情が伝わってくる。

旧約聖書「出エジプト記」を読む

朝日カルチャーセンターと東工大が提携して行っている講座。講師は橋爪大三郎社会学)。会社は有給休暇をとって、前回の「創世記」に引きつづき、熱心に参加しました。

旧約聖書の基礎知識
・旧約の「約」は約束(神との契約)の意。古い翻訳ではありません。
・「旧約聖書」とはキリスト教徒による呼称で、ユダヤ教徒はTANAKH(タナハ)と呼ぶ。「タナカ」ではなく「タナハ」。
・古代ヘブライ語で書かれている。
モーセ五書は紀元前6世紀頃に成立。
・もっとも古い本は「マソラ本文」。レニングラードに保存されている10世紀の写本。
 
旧約聖書」を読む視点もまたさまざまにあると思う。現代に生きる私たちが「なんとなく」よりどころとして信奉する考え方や思いこみの源泉がいたるところに埋まっており、理由はよく分かんないけど、みんなそうやってるから波風立てないように「なんとなく」従っておくよ、がほとんど生理的に不快な私には、そこが非常におもしろい。ユダヤ教徒にしてみれば、旧約聖書の言葉は神の言葉なのだから信じるのみで、生活においては旧約聖書の教えに則って振る舞うすなわち宗教生活であり、それが自らの思考を律しているなどとは捉えないのだろう。

十戒」は英語で「Ten Commandments」と言う。この訳が不適切という話があった。「戒」とは仏教でお釈迦様が修行僧に向けて、成仏したければこうした方がよいですよ、というオススメ方法を説いたものであり、飽くまでrecommendation。「戒」は破ってもよいのだ。一方、Commandmentsは「命令」の意である。軍隊の指揮系統を司るような伝達の一種で、破ることは許されない。神から人間への「命令」であるから、「十命」の方がよいのではないか、とのこと。

そのひとつに、「隣人に対して偽証してはならない」(仏教では妄語戒)とある。これが現代の裁判を可能にしている。法廷で証言する者は嘘を付かないことを神に誓う。よく映画でもそういうシーンを見るけれど、そうすると、日本の裁判はどうなってるのだろう。

嘘を付いてはならないという倫理が、「真実」という概念を生み、「真実」を探求する「科学」(論文では「本当のこと」を書く)が誕生したのだという。

順番でいくと、次は「レビ記」なのだが、「旧約聖書レビ記」を読む」ではとてもお客さんが集まりそうにないので、次回のテーマは「新約聖書」だそうです。