メタリカ 真実の瞬間

メタリカ 真実の瞬間 [DVD]

メタリカ 真実の瞬間 [DVD]

劇場公開時に見逃していたメタリカのドキュメンタリーのDVDが安くなっていたので買った。

メンバー同士の不仲がバンド活動に支障をきたし、解散にまで至る事例は枚挙に暇がないのだが、ライブ中の様子しかほとんど目にすることのないわれわれは不和の実際を見聞きする機会を得ないのだし、バンド側にしても、そういう「人間くさい」状況は見せたくもないだろう。

メタリカの問題の中心は、ジェイムズ(ヘットフィールド)とラーズ(ウルリッヒ)という巨大なふたつのエゴの衝突、まあ言ってみればわがままがとりあえずは原因である(かに見えた)。

誰かがリフのアイデアを出したとしても、お、それはいい、それでいこうといってすんなり一発で通ることなどまずないし、歌詞にしても同様で、たまたま会話の中に登場したフレーズをピックアップし、試して歌ったりするんだけども、ピンとこないとかなんとかいって、これが延々と続く。そもそもひとつの作品(曲、アルバム)を共作するというその出発からしてたいへんなことだが、メタリカの場合、メンバーそれぞれに自信が漲っており、事実、才能があり、そこへ「メタリカ」という「ブランド」が覆いかぶさっている。しょぼい作品を出すわけにはいかない。ジェイムズは「ロード」「リロード」は失敗だったとこぼしていたから、余計に重圧があったのかもしれない。

メンバーの私生活もおもしろい。みんな(ベースのジェイムズは脱退しているので、ジェイムズ、ラーズ、カークの三人)大金持ち。ジェイムズは「今は」家族最優先の人で、バレースクールに通う幼い娘を夫婦で見に行ったりしていた。カークはサーフィンに興じ、私有の牧場で馬にまたがるアウトドア派。ラーズは自宅に著名な作家の絵画を飾り、バスキアの作品をオークションに出したり。

アルバム「St.Anger」の制作に際しては、期間を通じて専属のセラピストを雇った(月40000$)メタリカ。貧相な風貌でバロウズのような顔をしたおっさん。メンバーのあいだで口論が始まると第三者の立場からときおり客観的なことを口にする。あれを数年間毎日とは気の滅入りそうな職業だと思った。

ウィータス(Wheatus)のインタビュー

yourou2006-10-23


以前、アメリカの某サイトで公開されていたウィータスのインタビュー。
残念ながら、私の英語のヒアリング能力がへぼいので、部分的にしか聞き取れてません。
アルバム"Too soon monsoon"に収録された"BMX bandits"のエピソードは楽しいので、そこだけ訳しておきました。
 
■What's your recording pcocess like?

The first record was made in the besement during a three week period, and the second one took a long time as well. But, the third one is one we sort of did correctly finally. And we recorded live in this room.And a preference was used to be here

I think that's better way personally
Professional plays are so expensive that, you know, prohibited.
Anyway I think we've get better vibe here. So that's the real reason.

as a whole, there are some vitals when you write a song and a lot of songs lose what they have when you write them in a studio. Then I finally retain more of that whatever it is when you're at home.
 
■What is your song writing process?
I usually demo, everything first in play all instruments drums or which I do the drum machine they tend to become more interested they get off the grid and start to flow quite a bit more, and thenthey become rock soul.
 
■How did "BMX Bandits" come about?
I was BMX kid when I was thirteen,… eleven twelve or thirteen somewhere around there. because of the movie "BMX bandits" you know, just having a crush on a I got back on my bike a couple of years ago. I tried to start riding again. I actually was able to get good for a while, and then I broke my collarbone.

(13才の頃、ぼくはBMXキッドだった、いや、11才か12才か13才か、まあそのへんだね。映画の『BMXバンディッツ』(注:83年のオーストラリアの子供向けの映画→BMX Bandits (film) - Wikipedia)のせいで、2、3年前に自分の自転車をまた手に入れた。それでクラッシュした。もう一回乗るのにトライして、しばらくはすごくうまくいったんだ。で、そのあと鎖骨を折っちまった。)

死の選択 : デスメタルとグラインドコアの胡散臭い歴史

Choosing Death: The Improbable History Of Death Metal & Grindcore

Choosing Death: The Improbable History Of Death Metal & Grindcore

翻訳は出ていないはず。「メタルによる死」という章の冒頭だけを抄訳。
 
多少なりとも想像力を働かせれば、アイアン・メイデンのあのいたるところで目にする骸骨のマスコット、エディーがフロリダのデスメタルシーン全体に実際に変化を与えたキャラであることを証明できるだろう。
1983年、アルタモンテ温泉(人口20000人超)の静かなオーランド郊外にある唯一の公立高校、ブラントリーレイク高校でバーニー・リーのような生徒たちは時間をつぶすためのありがたい気晴らしとしてノートの表紙に落書きしていた。リーもまた音楽や政治色の強いデッド・ケネディーズ、ザ・エクプロティッドとおなじミスフィットやサムヘインのケバケバしたロゴに慰めを求めていた。
「ある日、俺はひとりで座っていた。もちろん、いたずら書きをしながら」
リーは1983年当時を思い出して語る。
「俺は小さな骸骨人間を描いていた。そうしてたとき、そいつは俺の肩越しにのぞき込んで言った。アイアン・メイデンのエディを描けるか?ああ、余裕だよ。そのときから、俺たちはしゃべりはじめた。」
この男は名前をフレデリック・デリーロといい、メタル狂で、すぐにリーと友人関係を結び、アクセプト、レイヴン、マーシフル・ヘイトといったヨーロッパのヘビーメタルバンドを彼に押しつけだした。けれど、リーはその手の音楽にはどちらかというと懐疑的なままだった。
「俺はその手の音楽は聴いたし、尊敬していた。けど本当の好みではなかったんだ」
彼は説明する。
「フェイトは好きだったけど、高音のヴォーカルのたぐいはまるでダメだった。ある日、リックが俺のところにやってきて言った。こういうバンドがある。聴いてみろ。モーターヘッドみたいだったけど、そいつはもっとずっと過激だった。こうして彼はヴェノムのアルバム「ブラックメタル」に出会ったわけだ。これなら俺らにもできる!そんな感じだったよ。」

フェルマーの定理、証明までの道のりを箇条書きで。

ギリシャディオファントスが著した『算術』の問題8の余白に「フェルマー予想」。17世紀のこと。
フェルマーのメモ「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。」
■1670年、フェルマーの長男クレマン・サミュエルが『P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術』を刊行。フェルマー予想が世に出る。
■n=4の場合については、無限降下法を用いてフェルマー自身が『算術』の別の余白で証明。
■1753年8月4日、オイラーフェルマーの証明を拡張し、虚数を使って、n=3の場合を証明。
■フランスの女性数学者ソフィー・ジェルマン(1776-?)は、nがジェルマンの素数(2p+1が素数となるような素数p)のとき、x^n+y^n=z^nに解が存在する可能性はきわめて低いことを証明。
■1825年、ディリクレとルジャンドルがジェルマンの証明を鍵にして、n=5の場合を証明。
1839年、ラメがジェルマンの方法を改良してn=7の場合を証明。
■1847年3月1日、ラメが、フランス学士院の会合で、まもなくフェルマーの最終定理が証明できるところまできたと宣言。同じ会合で、コーシーがラメとおなじ方法で証明に取り組んでおり、じきに発表すると宣言。
■同年4月、コーシーとラメが学士院会報に証明の一部を発表。期待が高まる。
■同年5月24日、リューヴィルが会合でドイツの数学者エルンスト・クンマーからの書簡を読み上げ、ふたりに共通する根本的な問題、すなわち、虚数が含まれているのに証明が素因数分解の一意性に依存している(実際は一意でない)ことを指摘。証明の見込みが薄れる。
■1955年9月、日光で開かれた数学の国際シンポジウムで日本の数学者・谷山豊が、ある楕円方程式のE系列がどれかの保型形式のM系列になっていると予想。
■志村五郎がこの予想を発展させ、楕円方程式はどれもモジュラー形式と関係づけられると考えはじめる(谷山=志村予想)。
■1958年11月17日、谷山豊が自殺。
1984年の秋、ドイツの数論シンポジウムでゲルハルト・フライが谷山=志村予想を証明することはフェルマーの最終定理の証明につながると主張。
■およそ2年後、カルフォルニア大学バークレー校のケン・リベットがバリー・メーザーの助けを借りて、谷山=志村予想が成り立てば、フェルマーの定理が成り立つことを証明。
■1986年夏、ワイルズが友人の家で、リベットが谷山=志村予想とフェルマー予想のつながりを証明したことを聞き、感電したようなショックを受ける。谷村=志村予想にひとりで取りかかる決意。
■1年後、考えぬいた末、出発点として帰納法をとる方針を固める。
■1988年、楕円方程式の少数の解を使って得られるガロア群から、すべてのE系列の最初の要素がすべてのM系列の最初の要素と一致することを証明。
■1988年3月8日、都立大学の宮岡洋一が微分幾何学の観点からフェルマーの定理の解法を見出したとワシントン・ポストニューヨーク・タイムズが報じる。ワイルズに衝撃。
■およそ1ヶ月後、宮岡の論理にギャップがあることをゲルト・ファルティングスが指摘。証明が失敗。
■1990年、楕円方程式の一要素がモジュラーなら、その次の要素もモジュラーだと示す方法が見つからず、ワイルズは闇の館のなかでいちばん暗い部屋にいると感じる。
■それから1年間、岩澤理論を使った方法を試みる。少しずつ無力感を味わうようになる。
■1991年夏、岩澤理論の修正をなかばあきらめ、最新の話題を仕入れるためにいったん数学界に戻ることを決める。ボストンでかつての指導者ジョン・コーツからコリヴァギン=フラッハ法の存在を聞く。
■コリヴァギン=フラッハ法の習熟と修正に邁進。また楕円方程式をいくつかの族に分類できることに気づき、各族に適用していく。
■1993年1月、証明に取り入れた幾何学的方法にうついて、ニック・カッツに相談することを決める。谷山=志村予想を証明できそうだと告げられたカッツは仰天。
■『楕円曲線の計算』という名の院生向け講座をもうける。誰にも気づかれないようにワイルズの証明を段階的にチェックするのが目的。数週間後には受講生がカッツのみとなる。
■5月末の朝、楕円曲線の最後の族を証明するヒントをバリー・メーザーの論文に見つける。午後、お茶をしに階下に降りる。「フェルマーの最終定理をといたよ」と妻に告げる。
■1993年6月23日、ケンブリッジで行われた会議「L関数と数論」でワイルズが講演。フェルマーの定理を黒板に書き『ここで終わりにしたいと思います』。喝采
■200ページの論文を6つの章にわけ、6人のレフリーによる審査がはじまる。ワイルズとのメールによるやりとりが8月まで続く。
■8月23日、カッツからコリヴァギン=フラッハ法の機能に関するひとつの質問が届く。当初、小さな問題と見なしていたが、次第に根本的な欠陥であることが分かりはじめる。(つづく)

フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

『LOFT』

yourou2006-09-14

黒沢清の新作を見た。2004年12月12日の日曜日、ひとりで横浜美術館に出かけて聞いた黒沢監督の講演の中で、この作品の完成が告げられていたから、公開にこぎつけるまで、それから一年半を超える時間が過ぎたことになる。何かドタバタがあったのかもしれない。
キャスティングが目を引く。中谷美紀豊川悦司西島秀俊。そして、安達祐美。目の下を黒く塗り、喪服のような真っ黒のワンピースに身を通して、薄暗い部屋の隅に直立している。幽霊らしいのだが、ぜんぜん怖くない。何してるの?という感じだ。安達祐美という存在は、むしろ怖いのだが、そんな彼女が怖さを演じると滑稽に転じてしまう。
怖がらせ方の点で、これまでの「ずらし」が影をひそめ、オーソドックスなホラー映画の文法にしたがっているように見えた。意図的だとして、果たして、効果をあげていたかどうか。黒沢映画では、辻褄合わせの「なぜ?」の頻発はひかえるべきなのだが、私はそこはあまり気にしておらず、恐怖と滑稽が同居する生々しい画面との遭遇を面白がってきた口だ。しかし今回は驚く場面があまりなかった。
公式サイト→http://www.loft-movie.com/

世界一周恐怖航海記

世界一周恐怖航海記

世界一周恐怖航海記

 
巨大な客船で日本を出発し、百日間かけて世界一周する「ピースボート」に作家の車谷長吉と妻で詩人の高橋順子(+影の大ボス・新藤涼子)が挑み、その顛末を赤裸々に綴った冒険日記。たどたどしい言葉とジェスチャーで外国人とじゃれ合って遊ぶことが「国際交流」であると我が国では認知されているようだが、ピースボートもまたその域から一歩も踏み出していないことを本書が明かしている。そのせいか、公式サイト株式会社ジャパングレイス「ピースボートの船旅を企画・実施する旅行会社」 - 1969年に創業し、まもなく50周年を迎える旅行会社。1995年よりNGOピースボートの企画クルーズを主催旅行社として主催。以後、毎年実施される「地球一周の船旅」をはじめ、アジアなどで行うショートクルーズを含めたクルーズにおける業務全般を行う。株式会社ジャパングレイス「ピースボートの船旅を企画・実施する旅行会社」に掲載された「これまでにご乗船いただいた方」の一覧には、各界の著名人の名前(筑紫哲也立松和平金田喜稔、・・・)が列挙されているにもかかわらず、車谷、高橋両氏の名前はない。海上を漂う世間にあっては、老いも若きも異性を求めて船内を奔走、ラブワゴンならぬラブシップの船上(戦場?)は「あいのり」そのもの、であるらしい。欲望の濁流がうねる人間模様に辟易しつつ、それでも、パタゴニアの氷河が眼前に広がったときは、思わず「この旅にきてよかった!」と著者。カラーとモノクロの写真がふんだんに載っているので、セスナ機の空中旋回に引きつったり、歯の欠けたりした長吉っつぁんの百面相をご覧いただけます。