退屈論

退屈論 (シリーズ生きる思想)

退屈論 (シリーズ生きる思想)

「暇」と「退屈」では若干ニュアンスが異なるような気がするものの、その差異の考察は別の機会に譲ることにして、小谷野敦の『退屈論』を読んだ。そこでハイデッガーが「退屈」を三つに分類していることを知った。
 
1.或るものによって退屈させられる。
2.或ることに際して退屈する。
3.なんとなく退屈だ。
 
1.は例えば、田舎の駅で列車を待つことだというが、ケータイの普及した現代にあっては、1.は解消されつつあるのではないか。

2.は「パーティに招待されて、食べたり飲んだりおしゃべりしたりしていながら、ふと気がつくと退屈しているといった類」で、特定の状況が持続した末に飽きてしまうことがこの退屈を招くのだろうと推察する。会社で感じる退屈はこれに近い。

興味深いのは3.で、川原栄峰という人が要約して述べるところでは「退屈とは、根本的に言えば、哲学せよという誘いですね。(中略)大衆は退屈に耐えられないで、『技術的世界の非故郷的な』『娯楽へと逃避する』ばかり」なのだそうだ。この「退屈」の規定には異論がない。そのとおりだと思う。要約の後半だが、退屈をしのげない大衆は、私の観察によれば、仕事に逃避するのである。娯楽への逃避が快を欲しての動きであるだけ「健全」なのとは対照的に、仕事への逃避は「拘束」をもって自由から逃走し、退屈を追い払うというマゾヒスティックな病理が顕著だ。