歴史を考えるヒント

歴史を考えるヒント (新潮選書)

歴史を考えるヒント (新潮選書)

 
終わりの数ページで論じられた『中世における「自由」とは』に著者の「本気」が執念を込めて打ち出されており、感動した。「無縁」は西欧の「自由」に近い概念だと、私(網野)は今でも「本気」で思っていると、本文中で「本気」という言葉を実際に用いており、まじめそうな網野氏が、内心ここだけは「マジ」とルビをふりたかったのではないか、そうかんぐってしまいたくなるほど。

このまえ、夜中に目が覚めて、なんとなくテレビを付けたら、日本の若いラッパーが、私が苦手な「熱い口調」でこんなことを語っていた。

「俺らはみんなが夢を持つべきなんて思ってない。もてるならもったらいいし、もってなくてもある時いきなりひょっこり思いつくかもしれないんだし、ただ、俺らが言いたいのは『行けるなら行っとけ』ってこと。店でCD見てて、結構いいCDがあったとして、金はあるんだけど、買うかどうしようか迷ってるんだとして、そういうときは『行けるなら行っとけ』ってこと。それだけだよ。『行けるなら行っとけ』」

ミュージシャンが自分たちの主張を説明する例に「CD購入」の場面をあげてしまう愚直なしくじりが滑稽ではあるのだが、スルーしよう。
『行けるなら行っとけ』。ここでは何が言われているのか。迷ったときは、自分が一番やりたいことをやりなよ、一度きりの人生だし、後悔はよろしくないという直感に従ってのフレーズと読める。こういう素朴な刹那主義は、否定はできない。そう思いたい。最近はあまり聞かないが、よく不良が「関係ねーよ!」と啖呵をきって周囲を突き放す、あれも世俗ルールからの「無縁」だろう。彼らなりの「無縁礼賛」なのだとも思う。ただ、『関係ねーよ』『行けるなら行っとけ』、どっちも表現としていまひとつ胸に響いてこない(賞味期限切れ、もある)。

語感が「勝手気儘」と大差ない「無縁」(自由)をきちんとプラス評価することが、現在流通している日本語の範囲で、J-POPの歌詞(でなくてもいいのだけど)になかなか現れてこないのはどうしてなのか。この問いの源は、Liberty、Freedomを「自由」と訳した福沢諭吉にまで遡る。そこで、失われた意味とまとわりついてきた意味に目を凝らさないといけない。網野氏の著作から、そんなことを考えた。