『吸血鬼ゴケミドロ』

つっこみのない漫才です。
「彼女に死んだ亭主のそばに行けると話してやれ。」
「じゃあ、ニールさんを生け贄に!?」
「彼女は外人だ、後腐れがなくていい。」
ありえない。
本数こなしてないから、一般論に迂闊に敷衍できないんだけど、
こういう脚本を可能にしてる「動力」があるように思う。
要は、ツッコミがないってことだ。
笑い飛ばすべきところをそうしないから、つっこまれて途切れる
はずの会話が持続し、物語が先へと展開してしまう。
「私は学者として、吸血鬼が血を吸うところを見たい」
こんなこという奴は、ただちに袋だたきにすべきでしょう。
「学者として」というのが分からない。
見たいのは、みんな同じだよ。俺だって見たいよ。
まあ、あら探しはDVDの「特典」でみうらじゅんらが子細に
実行してるので、やめます。
この手(どの手?)の映画を見ていて不快なのは、「分から
ない」からではなく、「分かってしまう」からなのだと思う。
何もかもが分かってしまい、自分の存在が少しも揺らがない。
だからこそ、いたるところでツッコミを入れたくなる。
「それでいいんだよ」とすり寄ってくる映画に、「いいはずが
ない!」とふりはらう自分がいる。(笑)
それにしても、タランティーノゴケミドロを知ってるだけ
でなく、『キル・ビル』でゴケの赤い空を意識したってのは
すごい。どこの国でもオタクは手強いなあ。