2004年1月の朦朧日記

更新の止まってしまっている本家「養老院本映堂」から過去の日記、それも記念すべき初日記から日ごと順番にコピペ。大学4年次の頃、卒論発表まで1ヶ月という切羽つまった時期なのにやけに文化的な生活を送ってます。懐かしい〜。
 
1月7日(金)
 もう1月だってぇのに今日は空気が無闇に生暖かく、布団から脱出するのが容易だ。朝から本日〆切のレポートをやるべく寝巻きのまま机につき、教科書を眺めながら少しく考えるがまるで分からぬ。え〜い、もうテキトーだ!と自分でも明らかにおかしいと感じるやり方で無理やり終了させ、学校に提出に行く。
 学校。昨年以来久しぶりに訪れたが、相変わらず寒寒とムードが湿りきっている。友人に貸していた書物を返してもらおうと電話するが、応答せぬ。となるともはや学校に用はないので、駅前のツタヤに行く。先日渋谷にオープンしたツタヤと比べると品が少ない。ゴダール『女は女である』とタチ『ぼくの伯父さんの休暇』を借りる。
 横浜の有隣堂をぶらつく。「群像」に東浩紀阿部和重の対談が掲載されていたので買った。読むがそれほどおもしろくない。東は好きだがエヴァンゲリオンの話が始まると分からないのでつらい。しかし以前友人と話したのだが、文芸誌というのは一体誰が買っているのだ?電車内等でも読んでいる人を見たことがない。
 その後家庭教師に行く。合同だの相似だのといった中学生の図形の問題は難しくて、補助線とか私は全然思いつかないのだが、仮に思いついたとしてもそれを教えることができない。
「何でそこに補助線を引くの?」
「いや、何でって言われても、こう引くとうまくいくから・・・」
「何でそこに引くとうまくいくことが分かるんですか?」
「う〜ん・・・。俺もたまたま思いついただけだからなぁ・・・」
なんて具合になってしまってどうにもならん。
 おやつに鯛焼きが出されて、見れば鯛焼きだということは明らかなのだけど
鯛焼き?」と尋ねると
「はい。ミニです」
ってこれも見れば小さいことは明らかなのに、不条理な会話が毎回繰り返される。
「学校で携帯持ってる奴って多いの?」と聞くと
「多いです。でも金がもったいないと思う。僕ならゴエモンに全て費やします」
この返答も全然意味フメーなんだけど、面倒なので
「その方がいいよ」
とか言って流した。
 教えているその子供がことあるごとに「オーマイガッ!」と言うのが気になって気になってしょうがない。しかし指摘するのも大人げない気がして、黙ってはいるが、そのうち俺まで一緒になって「オーマイガッ!」とか言ってたりしないだろうなぁとやや不安だ。
帰宅後、少しテレビを見て寝た。
 
1月13日(木)
 いつか学会で発表しようと思っている私の発見したひとつの法則がある。

「試験前読書欲増大の法則」

 上記の法則はこれまで私が身をもって実証してきた「経験則」である。俗に「読書家」と呼ばれる人々に比べれば、私は普段たいして本を読まぬが、大学の試験までの日数が少なくなればなるほどそれに反比例して読書欲が増進する。さらに困るのは、通常そこで「現実原則」が働いて自我は欲望を抑えるはずなのに、私の場合どういうわけか毎回実行してしまう。本能が壊れているようなのだ。結果留年した。
 このままではまずい。欲望のままに動いていては人は破滅する。とはいえ「読書欲」などと大袈裟な名称をつけ、抑えがたい衝動として導入された概念もその本然は「試験勉強がしたくない」ことの裏返しでしかない。物理そのものはつまらないものではないが、試験だの単位だのってことになると話が変わってくる。「趣味」に金儲けが少しでも絡むとそれがただの「手段」になってしまうのと同様に、試験は学問を「手段」へと貶めてしまうのだよ。
 というわけで2月のはじめから試験である。例によって読書欲が私のうちから沸沸と湧いてきている。本日久方ぶりに学校で授業を受け、その帰りに渋谷で書店を2、3巡った。まずは「パルコブックセンター」。ここは良いね。書物を嫌らしい知識の源泉としてではなく、ほんのオシャレのひとつとして捉えようみたいな空気が店内に漂っているように感じる。アルトーヘリオガバルス―または戴冠せるアナーキスト―』(白水ブックス)を買ってやった。「思考を破壊する何か」が私を試験に向かわせなかったのです!と後日弁解するためだ。

 次に「BOOK1st」へ行く。ここはパルコに比べるとものの配置があまり良くないと思う。で、何を買ったかと言うと私がずっと「この人はすごいよ」と布教活動を続けているのに誰も読んでくれない松浦寿輝の『謎・死・閾―フランス文学論集成―』(筑摩書房刊)であります。4500円!高いがここで氏が扱っている人々を見れば買わずにはおれない。列挙しますと、ヴァレリーブルトンマラルメルーセル、ピカビア、レリス、シモン、ガレッタ、ソレルス、ミショー、バルト、ドゥルーズガタリフーコークロソウスキーバシュラールシオランアルトーデリダベルクソン、ドゥギー、レダ。ついでにTSUTAYAでタネール『光年のかなた』も借りた。
 さて、物理やろ。マジでやばい。
 
1月18日(火)快晴
 昼飯にスパゲッティミートソースを食し、よーし試験勉強を始めるぞぉと机に辿り着いた。直ちに教科書を開けばいいものを「ちょっとだけ」と己に甘えて車谷長吉『漂流物』(新潮文庫)を手にとり、蒲団にゴロリと横臥したのが失敗。車谷氏の呪術的エクリチュールはこの場合睡眠薬の役目しか果たさず、満腹感が眠気にすくすくと成長してゆく。これはいけないとガバと身を起こし、眠気を振り払うべくこうして日記を綴ったのである。
 頃日、何となくテレビを付けたら、ある日本の科学者が「もう要素還元主義の時代は終わりや」という意味のことを述べていて、「そうだ」と思った。要素を集めてもイコール全体とならないことが謎なのだ。「運動」は要素に分解できない。そのことが現実的にどうなっているのか少し調べている。哲学的にはよく分かんないけどドゥルーズ=ガタリはやっぱすごい。『記号と事件―1972-1990年の対話』(河出書房新社)を読んでいたのだけど、彼らの視点は信じ難いほど新鮮でこういうものの見方があるのかと驚いてばかりいる。科学では自己組織化の問題が今後楽しいことになるかもしれぬ。
 
1月20日(木)快晴
 ここのところ「人生相談系」の本にはまっている。別に私自身が深い悩みを抱えてしまったというわけではない。図書館で借りた詩人の田村隆一の書いた人生相談の本を何とはなく読んだところ、氏が自身の経験を踏まえつつ読者からの様々な相談事に次々と的確に答えていくのに、なるほどな〜と素直に感激してしまっただけである。その後松浦理英子中島らも原田宗典と読んでみたが、それぞれ著者の個性が出ていておもしろいしためになる。笑えるという点では中島らもかな。例えばこういうの。

Q.行きつけの店があって、ひとりで飲みに行くことも。そんな時に「淋しそうだね」なんて声をかけてくる奴がいて、ガッカリ。女がひとりでカウンターにいても、物欲しそうに見えない方法ってないものかしら。
(このバカモノ 26歳)

A..ありません。
(中略)絶対に知人に会わないような、どこか辺ぴな場所でも探せばいいのですが、なんでわざわざ自分がそんな逃げ隠れしないといけないんだと思うとシャクにさわるので、最近ではもう一人で飲むのはあきらめました。
 男の僕でそれですから、女性のアナタがジロジロ見られてあらぬ憶測されるのは仕方ないでしょう。


 まあらも氏のように顔が広いと外で飲んでいて知人に会うなんてことが起こるのかもしれないが、私の場合そういうことはまずあり得ないし、事実会ったこともないので一人で飲もうと思えばいつでも問題なく飲める。若い女性の場合は、ひとりで立ち食い蕎麦屋に入ることが「事実上」不可能なように、外で一人で飲むのは難しいのでしょうなー。
どうも日記になってないな。
 
1月23日(日)晴のち雨
昨晩。夜中に激しい腹痛に見舞われた。原因は良く分からないのだが、昼に食べたセブンイレブンのスパゲッティカルボナーラがまずかったように思う。私は普段コンビニのものは殆ど食べないのだけれども、自宅に逼塞して試験勉強をしているとどうも腹が減る。夜中の3時頃から痛くなり始めて、翌朝10時まで痛みが続いた。薬を飲んでも効かない。蒲団の中でウ〜ンウ〜ンと身悶えしながらじっと耐えていたわけだが、こういう状況に陥るといつも同じことを考える。試験とか物理とかサッカーとかそういうものはどうでもいいから、とにかく今すぐこの腹痛を除去してくれと。
人は健康を害さないかぎり、健康であることのありがたみの分からない愚かな生き物なのです。健康万歳。五体満足万歳。