プラスティック・ソウル

プラスティック・ソウル

プラスティック・ソウル

 
買ってあったのをようやく読みはじめた。斉藤環金原ひとみの作品(といっても『アッシュ・ベイビー』発売時だから『蛇にピアス』と合わせて2作しかない)を論じながら、地の文の硬さに文学の不自由を見ていたことがあった。根拠のない慣習やお約束は可視化して茶化す。どんどんやるべきだ。うっかり放置すると内輪は強化され、じゃれ合いばかりが拡大してしまう。避けねばならない。阿部和重の文章は地の文がやけに硬く、論文調なのに、会話に転じると下世話な事柄を急に品位を欠いた口語体でまくしたてる。

話のすべてを聞き終えるまで口をつぐんでいた彼(注:アシダ)は、フジコに対し、次のような独自の解釈を述べたのだった。
(・・・中略・・・)そもそも結納金というのものは、婚姻の成立目的のための贈与ではあるが、内縁でもいちおう婚姻成立として目的達成と見做されちまうわけだから、その後すぐ別れても貰いっぱなしで構わないらしいね。貰ったもん勝ちなんだな。貰うだけ貰っといたほうがいいんだな。端的に得なんだな。しかしあまりにも狭いと思うがね。狭いし、とんでもなく酷い話だ!だって、金だけ貰って別れるのは、式をあげた後でも構わないみたいだし、新婚旅行に行ってきた後でもいいというんだから。残酷だね。残酷だよ。残酷すぎるよ!(・・・以下略)

「独自の解釈」という警戒した方がよい用語が硬い文章に登場したとき、ふだんそこで読み手に去来するのは、それが往々にしてこじつけやたわ言と差のない妄言である低くない可能性であり、この小説では、フジコからフジコの同僚の「マリッジ・ブルーに類する悩み事」を聞かされたアシダが、引用した「独自の解釈」をご大層にも「述べる」ことになるのだが、結納金が婚姻の成立目的のための贈与であるという「事実」から出発して、「貰ったもん勝ち」だというアシダの一方的な価値判断、合理性をきどるよくある決め付けへと飛び移り、またそれは「端的に得」だとし、狭く、酷く、残酷なのだとくどくどつづける。いつからか特権的な地位にあった「独自の解釈」という言葉のまとう「硬さ」がここでは脱色され、ゆるくなっている。