永遠の語らい

永遠の語らい [DVD]

永遠の語らい [DVD]

2001年7月という時期は、米国を見舞う世界貿易センタービル倒壊のおよそ2ヶ月前にあたり、「テロ」という言葉に人々がまだとりたてて感情を逆撫でされることがなかった朗らかな時世であって、歴史だとか文明だとかが、地上に遍在するどす黒い憎悪をたぐり寄せて露わにすることはあってもせいぜい小出しであるように思われました。ポルトガルを出発し、パイロットである夫に会う目的でインドのボンベイまで船旅をする歴史学者の母と幼い娘は、立ち寄るギリシャやエジプトやトルコの古代遺跡に何を見透かすのかと言えば、さしずめ「過去」です。
今朝早くに目を覚まし、記憶の新鮮なうちに昨晩出会った珍しい映画の感想を残しておこうと鼻息荒くパソコンに向かったまではよかった。朝の爽快感にまたがって(朝型な私)テロ、歴史、文明、憎悪、過去と大仰な言葉たちを貧弱な短文にばらまいたまま、「つづく」などと先の構想もなく出社したツケが、今どっかりと手首にのしかかっています。豚肉と青梗菜のかき油炒め定食を溜め込んだ腹をひきずった状態で『永遠の語らい』の凄さを語るためには、どうしたらいいのか。枷となる高等な言葉を捨て、身軽になって、あらためて映画に向き合うしかありません。告白します。見ているあいだ中、強い眠気が私を襲っていました。さいわい寝込む失礼を働かずに済んだとはいえ、30分見終わった段階で再生を止めて、いったん夕飯の買い物に出かけたのは事実です。母と娘が船旅しながら過去に、歴史に思いを馳せる。今朝方、そう書きました。そのとおり。偽りはありません。まさにそういう映画です。歴史に思いを馳せる。母と子が「歴史」という異分子を交え、ほほえましいながらも、チラチラと瞬いて流れる緋色の地下水を探り当てるようにしてゆったりと対話に漕ぎ出す。言葉ではなんとでも言えます。けれども、映像という媒体がときにひどく残酷なのは、それが言葉の詐術を暴き、排するからに他なりません。母娘が行き着く先は、ピラミッドやパルテノン神殿などどれもが有名すぎる場所ばかり。ありえないカメラワークで見知ったイメージを粉砕するわけでもなく、観光客が手持ちのビデオカメラで捉えたかのごとき画面構成の垂れ流し。つらい。眠い。ポルトガルが世界に誇る現役最高齢映画監督マノエル・ド・オリヴェイラの初体験は、こんな弛緩しきった体たらくで幕を閉じてしまうのか。あるいは幕より早く瞼が閉じるのか。最後の1分、「もうダメだ・・・」とつぶやきかけたとき、閉じかけた幕に向かって瞼は見開き、端倪すべからざるラストに口をあんぐり。眠気はすっ飛び、私はただ呆然とエンドロールを見つめていた。底抜け観光映画。
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