劣化する平日

4月になったら再開すると、先月の末に明言しておきながら、いまだ日記らしい日記が始まっていない。ここを毎日のように巡回してくださっている方からは、「ほらふき」のレッテルが、私をかたどった藁人形の胸元に画鋲で突き刺してあるのではないかと思う。それも致し方ないことである。
なぜ日記をさぼってるのだろう。なぜついさぼってしまうのだろう。理由は簡単だ。生活が単調だからである。書くことがない。言葉の表現で彩る方法はあるのだが、残念なことに得意でない。そして、この単調な生活に対する私の評価がたいへん低い(笑)。「まさかこんなものではあるまいな」という期待が抜けきっていない。自分への期待はだいぶ薄らいでいるものの、生活への期待、もう少し生きた心地のする平日というものがあるんじゃないのかという思いが自分の中に労せず見つかる。生きた心地のする「平日」というのがポイントで、「休日」(日曜、祝日、長期休暇)は私の場合、お陰様で生誕以来ほぼ例外なく充実していたのである。学生時代、特に大学生の時期は、平日と休日の区別が明瞭ではなかった。一言でいうと毎日暇なのだが、時間を独り占めできるのはそれだけで楽しい。一日寝て過ごしたとしても、翌日、翌々日も休みであれば、時間を無駄にしたとはあまり思わない。明日があるさ、というわけだ。
NHKかなにかでサラリーマンの一日の生活を見て、その単調さに驚いたと中島らもがエッセイで書いていた。基本的に家と会社の往復運動であり、たまに傘をさす程度。傍からはそう見えるらしい。私の目にもそう映る。「家/会社」。現代思想風につづればこうだ。このような生活を写実的に言葉に移しかえると、前衛的な電子音楽のように同じリズムのくり返される日記が出来上がるのは疑いない。反復はいつしか快楽へと昇華するのだろうか。