隣席の冷房

宮古島で防波堤を築いている友人のあたま氏が、
昨夜から逗子のがくろうお宅に遊びにきていた。
「昼、食い行かね?」と、空いた茶碗の底にた
まった水滴にも足らない乾ききった「言葉」を
メールで投擲すると「うち、ゲロくさい」と「
了解」と取れる返信が打ち返されてきた。年始
めのサッカー明けに招かれたインド料理がよか
ったので、私の案で長者ヶ崎の先のカレー屋に
車で向かう。両親と娘あわせて3人が座った席
とおなじテーブルに低い敷居をはさんで事実上
の相席。私はマトンカレーとライス、あたまと
がくろうおはライスでなしにナン。世間のご多
分に漏れず、会話はおおむね誰々がどうしたの
こうしたのといった人事問題の報告ならびに批
評(あたまは毒舌)に終始するのだが、注目せ
ねばならないのは、われわれのとりとめのない
放談ではもちろんなくて、隣席の一家の沈黙ぶ
りである。会話がない。離れた座席であったな
ら、積年の倦怠に連なる冷えた家庭のひと駒と
して、気にせず気づかず流していたに違いない。
ところが、いざ相席となってみると、これがな
かなかに不気味な様相を示し、冷気がしんしん
と足下から、手元から伝わってくる。このまえ、
中高時代の同級生だった子が、将来は「暖かい
家庭」を築ければいいかなと思っているとチャ
ットで言っていたのを思い出した。われわれの
談笑がやむと、スプーンと食器の衝突音がうす
暗い空間に響きわたって、たちまち冷気が群青
の色彩を強め、視界が悪くなる。せっかくイン
ド料理屋でホットな料理を食べ、ホットな気分
にひたろうとしていたのに。絵に描いたような
社会派のリアリズムが、存外、実在してしまっ
たかのようでもあって、むろん、細部には入り
組んだ事情が内臓されているに違いないのだろ
うけれど、一瞥するかぎり、やはりこれは避け
るべき事態なのだろうなと腕組みし、沈痛な思
いを忍んだ。