「群像」を求めて

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

今日ではなくて、以下、昨日のできごと。
大きくふりかぶってのぞんだ割には、手がたくセンター
前ヒットに終わった散髪。私にはこの日、今ひとつの指
名があった。「群像」の最新号に阿部和重の新作『グラ
ンド・フィナーレ』が掲載されているのだ。なんとして
も今日中に読みたい!美容院から最寄の書店は青山ブッ
クセンター。一時、経営難から閉店の知らせが流れたも
のの、多数の惜しみの声を受け止めて、その後、復活し
たABC(Aoyama Book Center)。トレードマークの屋外
エスカレーターを降りていくと、ガラス張りの壁越しに
見えてくるただならぬレイアウトの書棚。商店街の「本
屋」とは一線を画すこだわりの品揃え。最新号といって
も「群像」は発売から間もなく一ヶ月経つのだが、いま
どき文芸誌を買って読む輩は、探せばいないこともない
ブドウパンのブドウのような頼りない消費者でしかなく、
どうせ売れ残っているだろうと雑誌の書棚を探していく
のだけども見当たらないのは、ABCがこだわりの書店であ
るからこそで、しかも『インディヴィジュアル・プロジェ
クション』の頃は「渋谷系」と言われもした阿部和重
目立つロゴが表紙に大きく刻み込まれた今月号は、ここ
渋谷区青山の書店ではいつにも増して売れ行きが伸びた
という「現象」なのだろうか。「棚になければないです」
という返事には耳を塞ぎたい気持ちで、「群像の最新号
ありますか?」とレジの店員に尋ねてみると、店員は
「棚になければないです」と耳を塞ぐ暇も与えず即答し
た。つづいて足を運んだのは、知らぬうちに渋谷の駅前
に開店した「文教堂書店」。「文教堂」は実家の近所で
長年お世話になってきただけに、思い入れがある。それ
に共鳴するように、2冊もの「群像」最新号が雑誌コーナ
ーに縦置きで残っていた。迷わずレジに運ぶ。どこで読
もうかなあ。脳みそをしぼると、 HMVの7階にあるマ
ンガ喫茶「バグース」が耳の穴から転がり出てきた。こ
こは学生時代、ときたま暇つぶしできたり、稀に終電が
なくなるまでふざけていた折、宿泊施設の代わりに使わ
せてもらったことがある。といっても、マンガは興味を
惹かれたものをたまに読むくらいなので、マンガ喫茶
備える機能のうちで活用するのはインターネットのみ。
勿体ない話である。が、いまや私にとってネットは、マ
ーシャル・マクルーハンの「知覚の拡張」ではないが、
身体の一部になってきている感覚があって、ネットワー
クに繋がったパソコンの前にいないと、別のことをする
にも落ち着かないようになってしまった。「科学の恐ろ
しいところは、一度進んだらもう元には戻れないという
ことだ」とは詩人の田村隆一の言葉。科学にはタバコの
ような中毒性があるのかもしれない。ネットが世界から
消滅しさえすれば、人は難なくネットのない世界でやっ
ていくだろうが、一度ネットに親しんだ状態から、ネッ
トのない生活を「選ぶ」ことはたやすくない。庭先で木
の実を啄ばむ雀の一挙手に意識を溶け込ませる詩人の詩
的で質素な暮らしぶりと対照的な科学的な暮らしは、失
われた詩情に見合うだけの単なる利便性に留まらない新
しい世界を開いてくれるようなのだ。
高い背もたれのフワフワにどっかり腰掛けて、紙面にき
つきつで詰まった字面を追っていく。しばらく読むと睡
魔がやってきたので、仮眠をとる。ぶるぶるとポケット
で震えるケータイで目を覚まし、メールを確認すると、
ちょろさんからであった。用件を確認したあと「ただい
ま渋谷のまん喫でダラダラ中」と送ると、ちょろさん夫
妻も渋谷に向かって移動中とのこと。「やっぱ渋谷だよ
ね」「やっぱ渋谷でしょ」。こうして交信を終えた。