成田空港で橋爪大三郎先生に出会う

思いがけない人物に思いがけない場所で出会う機会が、どういうわけかよくある。それにしても、今日の出来事は特別だと思う。なぜこうも偶然が重なるのか。不思議でしょうがない。
本日より二週間、例によって、台湾へ出張である。昨日は炎天下でサッカーを目一杯やって、くたくたになった。運動不足と深刻ではない業務ストレスがもとでふりかかった生まれて初めての肩こりにこの数ヶ月悩まされていたのだが、力いっぱいボールを蹴り飛ばし、息を切らして全力でグランドを走り回ると一発で吹きとんでしまった。朝、実家の布団で目を覚ます。梅雨とは思えない連日の陽光が窓の隙間から差し込んでまぶしい。体を起こすと太股のあたりに筋肉の疲労が残っているのが分かる。朝食にラーメンをすするのを好む私は、昨日地元のスーパーで買っておいた沖縄塩ラーメンを食べた。飛行機は夕方の便なので、昼過ぎまでたっぷり時間がある。といっても、こういう楽しい時間はどれほど長くても、一瞬で過ぎ去ってしまうものだ。
ラルゴ(飼い犬。ゴールデン・レトリーバー)を連れて海まで散歩に出かける。浜を見下ろす高台には松の木が何本も植わっていて、辿りつくとラルゴ君を細い幹に縛って座らせ、しばらく愚痴を聞いてもらう。「あ〜、出張行きたくね」。舌をだらりと出して、よだれを垂らしながら、ぶつぶつぼやく私にはまるで興味を示さず、黙って海を見つめているラルゴ。聞き上手だと思う。無関心という名の絆。好きだ。家に連れ帰ったあと、今日はせっかく天気がいいのだし、久しぶりに風呂場で洗ってあげようと散歩の前は思っていたのだが、めんどくさくなってやめた。恩知らずの飼い主。
正午過ぎに意を決し、荷物をもって逗子駅に出向く。少し時間があったのでドトールに入って、アイスロイヤルミルクティーのMとチキンを挟んだベーグルを注文。右手にベーグル、左手には小平邦彦『ボクは算数しか出来なかった』(岩波現代文庫)をもって読む。
「講義の内容は先生(高木貞治)が岩波数学講座に執筆された解析概論とほぼ同じであった。一回三十分、週四回で二時間、それで一年間で解析概論(現行本のルベーグ積分は除いて)の終わりまで講義されたのだから驚異である。(P31)」。
ありえない。いわゆる「指導」とは無縁の不親切な講義だったに違いない。それに平然とついていく小平氏もありえない。
今回の出張はこのほかに森毅の『異説数学者列伝』(ちくま学芸文庫)しか持参していない。週末、読み物が枯渇して暇地獄にはまり込むことが心配になり、早めにドトールの生活をうち切って、駅前の二宮書店に足を運んだ。つい昨日も自宅近くの文教堂書店に出かけて、一通り書棚は見渡したばかりだから、購買欲をそそる新刊はなかろうと期待せずに平積みになった本のタイトルをゆっくりぼんやり眺めていると「橋爪大三郎」の文字が飛び込んできた。タイトルもろくに確認せず手にとってレジに直行。帯には「覇権はいつまで続くのか」。新書での出版が続いている橋爪先生の新刊は『アメリカの行動原理』(PHP新書)であった。主題をストレートに書名に据えるスタイルは相変わらず。
橋爪先生には大学時代、特に「中国研修旅行」でお世話になったのである。「お世話」といっても旅行中、直接に講義を受けたり、ゼミを開いたりといったことは一切なかった。学生と一緒になって飲んだくれるようなことを一切しない方だから、言葉を交わす機会も数えるほどであった。雲南省の大理という都市に滞在したとき、宿舎の食堂でたまたま先生夫妻に出くわして、私を含む学生数名と夕飯を共にしたのをよく覚えている。そのときは村上春樹の『アンダーグラウンド』の話をした。
仕事で使う飛行機の座席は毎回エコノミークラスと決まっているが、たまたま今回は満席だったおかげでビジネスクラスを予約できた。こんな幸運は入社以来、初めてのことだ。離陸1時間前に空港に到着つくと、さっさとチェックインを済ませ、5万円両替して搭乗ゲートに進む。出発まで余裕はなかったのでどうしようか迷ったのだけど、せっかくのビジネスだからラウンジでちょっとだけ休もう。そう思って、入り口のエレベーターの前に立った。ドアが開いて、リュックを背負ったひとりの男性が出てくる。仰天した。
「あれ、橋爪先生!?」
しばし私を見つめる橋爪氏。
「以前、お世話になった朦朧です」
「ああ、さっきからどこかで見た顔だなあと思って。私はこれからちょっとアメリカへ」「ぼくは仕事で台湾に行くとこです。今は2週間おきに行ってまして」
「仕事は何をされてるのですか」
「***で液晶関係の仕事を。ちょっと信じられないんですけど、さっき偶然、先生の新刊を買ったんですよ」
「わ、そう!?それはいいですね。じゃあ勉強して」
「はい」
「あなたの名前、よくインターネットで見かけますよ」
「(笑)」
「そういえば、サイトを見たんですけど、今年は中国旅行を一般からも募集してるんですね」
「ええ、どうぞ参加してください」
「ぜひしたいですねえ」
立ち話をしているあいだ、先生は終始笑顔でうれしそうであった。私はといえば、出くわす寸前まで「(出張に)行きたくない、行きたくない、行きたくない、・・・」と念じているばかりで、暗澹たる気持ちに沈んでいた。そんなときに突然、こうした奇跡に巡り会って、かつての先生と路上で近況報告しあうことができた。うれしかった。「ではまた」と別れの挨拶をして、おのおの反対方向に分かれると、今しがた起こった出来事の感激がこみ上げてきて、「自分もがんばらなきゃ」と思った。「サインしてもらうんだったな」と淡い後悔に浸りつつ『アメリカの行動原理』を機内で読み進めた。

アメリカの行動原理 (PHP新書)

アメリカの行動原理 (PHP新書)