不良品 

「最低限のルールさえ守れば、あとは何をやっても結構!」などといとも簡単にうそぶく輩は信用できない、というか、そう宣言されても肩の荷が降りた感がまるでないのは、最低限のルール自体やそれを可能にする枠組みや不可視のルールが、そこでは疑われも想定されてもいないからである。未成年が体育倉庫の裏でタバコやシンナーを吸ったり、飲酒すれば、たちまち「不良!」と名指され、制裁がくだる。中学生の頃から、私はこの手の「不良」にはなるまいと心に決め、避けてきた。おやつは500円まで、バナナは除くというわけだ。だが一方で、私は「不良」が大好きである。私の考える「不良」と対照的な位置にいる人々は「善人」と呼ばれる。「善人」という言葉は、中島義道の本を読んで知った。善人とは「きれいごと」を述べ立てて恬然としている連中のことだ。善人のうちもっとも始末が悪いのは、自らの語っていることが「きれいごと」に過ぎぬことに無自覚なタイプなのだが、このタイプは放っておくと人生の末路で自壊する。お茶碗に付着した米粒を残さないよう、箸で死ぬまで拾いあげていることだろう。「不良」とは、目的的にルールを守らない傾向を指すのではなく、闇に沈んだ不可視のルールに違反する果敢な挑発者のことでなければならない。